キャリアパーツと言う単語は現代のビジネスの中だけに用いられる単語ではありません。キャリアパーツはいつの時代にあっても存在します。

その一方、時代の変遷の中で変化して行くキャリアパーツもあります。

日本の歴史上重要なキーワドの一つに「鉄砲」があります。

その鉄砲の歴史と1人の人物に焦点を当ててキャリアパーツの変化について見てみたいと思います。

今から500年近く前の1543年、種子島に漂着したポルトガル人が初めて日本に鉄砲をもたらしました。

種子島に到着した鉄砲のうち1挺は室町幕府第11代将軍・足利義晴(あしかがよしはる)の下に辿りつき、国友村(現滋賀県長浜市国友町)の鍛冶師に鉄砲を製作させる事へとつながります。

国友村は古くから多くの鍛冶師が住んでいたと考えられ、室町時代には鍛冶師の集落が形成されていたようです。江戸時代に入ると堺(大阪府)と並び日本の二大鉄砲生産地へと発展して行きました。

その国友村の鉄砲作りによって培われた高度な技術はやがて1人の優秀な男を造り上げました。

国友一貫斎(くにともいっかんさい)です。

一貫斎が生まれたのは江戸時代中期の1778年、戦国時代も100年以上昔の平和な時代となっている頃です。つまり鉄砲は不要な時代と言えます。

しかし、一貫斎は鉄砲造りで得た技術を活かし日本で最初の実用空気銃や反射望遠鏡を製作したのです。

例えば、望遠鏡の鏡筒(本体の筒の部分)は厚さ3mmの黄銅(真鍮)板を、真金に巻き円筒形に曲げ、下部で銀鑞付けして仕上げられています。これは火縄銃の筒を製作する方法が用いられています。

その他、懐中筆(筆ペン)、玉燈(照明器具)、神鏡(魔鏡)など数々の物を造り出し、東洋のエジソンと呼ばれるほどになりました。

更に、自作の望遠鏡で太陽の黒点観測を行なったり、あるいは月や土星のスケッチを残すなど、日本の天文学者のさきがけの一人とされています。

一貫斎は時代の変遷の中で自分の持っている鉄砲鍛冶士と言うキャリアパーツを活かしその時代に合わせて発明家、天文学者などへ変化させて行きました。

また、自分が既に持っているキャリアパーツを活かし、海外から入って来た物を真似る事で自分独自のキャリアパーツを得たとも言えます。

現代の日本には様々な物やサービスで溢れかえっています。しかし、海外に目を向けると日本には存在しない物やサービスを見つけ出す事が出来ます。あるいはYouTubeなど海外から新しいものが次々と入って来ています。

それらと自分が現在持ち合わせているキャリアパーツを組み合わせる事でキャリアパーツを変化させたり新たなキャリアパーツを造り出したりする事が可能になります。

キャリアパーツを変化させたり、あるいは増やす事で時代の流れに乗りましょう。

最後に歴史に視点を向ける事でもキャリアパーツの造り方にヒントを見出す事が出来ると言う事も付け加えておきたいと思います。